防災情報のページは地震と防災に関する情報をまとめたものです。災害対策にお役立て下さい。
サバイバルフーズ    防災情報のページ
非常食
防災情報のページ

防災情報TOP >> 阪神淡路震災[1995年]

阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)概要


阪神淡路大震災 (兵庫県南部地震)
1995年1月17日 AM5:46 M7.3 16km
死者6,434人、行方不明3人、重傷10,683人、軽傷33,109人
全壊家屋104,906棟、半壊家屋144,274棟、一部損壊家屋390,506棟
道路被害7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖くずれ347箇所
ブロック塀等の倒壊2,468箇所

■阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の震度分布
阪神淡路大震災の震度分布
震度表
平成7年(1995年)1月17日(火)午前5時46分、淡路島の北東約3kmの明石海峡付近の深さ16kmを震源とするM7.3の地震が発生した。
正式名称「平成7年 兵庫県南部地震」

神戸市須磨区鷹取、長田区大橋、兵庫区大開、中央区三宮、灘区六甲道、東灘区住吉、芦屋市芦屋駅付近、西宮市夙川等、宝塚市の一部、淡路島北部の北淡町、一宮町、津名町が震度7烈震。神戸と洲本で震度6、京都、彦根、豊岡で震度5、岐阜、四日市、上野、福井、敦賀、津、和歌山、姫路、舞鶴、大阪、高松、岡山、徳島、津山、多度津、鳥取、福山、高知、境、呉、奈良で震度4を観測し、広い範囲で揺れを感じた。
被害は震源域付近の神戸市が甚大で、東灘区では阪神高速道路神戸線の橋脚が折れ635mに渡り横倒しとなった。埋立地である六甲アイランドやポートアイランドでは、島全域で液状化現象が発生し、地盤が約50cm近く沈下した。神戸市兵庫区の神戸高速鉄道「大開駅」では、地下1階の改札口から下のホームまで大きく陥没した。神戸市中心街の三宮では、一階部分から大型ビルが折れまがり、そのままの状態で道路を塞いだ。南北に走る幹線道路には大きな亀裂が走り、50cm近くも盛り上がるなど路面が波打った。三菱銀行兵庫支店やダイエー、8階建ての神戸市役所も6階部分から折れ曲がるという座屈現象も起こし、オフィス街のビルの約2割が瞬時に使用不能となった。
地震の直接被害はオフィス街よりも木造家屋の密集地が深刻だった。神戸市灘区の阪神大石駅東側付近では、家屋のほとんどが倒れ倒壊率がほぼ100%近くに達した場所も出た。地震により神戸市を中心に約十数万棟の家屋が一瞬にして倒壊、早朝だったために就寝中の人たち約4,800人以上が倒壊した家や家具の下敷きとなって圧死した。兵庫県南部地震で特徴的なのは犠牲者の9割近く(84%)が家屋倒壊による圧死者だったことだ。倒壊家屋は、木造だけでなく鉄筋建築物にも見られたが、後の調査で、昭和56年(1981年)以降(いわゆる新耐震基準)に建てられた建物は比較的に被害が少なかったことが判明し、震災を契機に、同年12月には耐震改修促進法が施行され、地震調査研究推進本部も発足した。
人口が密集した大都市部の地震では、二次災害の火災が大きな被害となる。兵庫県南部地震も地震直後に、神戸市の52ヶ所で一斉に火の手が上がった。周辺住民による消火活動が行われたが、放水をはじめた直後にホースの水は止まってしまったため、火の延焼を食い止めることができなかった。神戸市の水道管は各所で破壊され、約2万4千ヶ所の消火栓のほとんどが使用できなくなったからである。神戸市は家屋6,912棟が全焼(うち4,730棟が長田区)し500人以上が焼死した。
全体の火災を時間帯別に見ると、半数は地震直後14分間に発生した火災だったが、地震発生から数時間以上経過してからも少しずつ発生している。発生当日の1月17日の火災件数が206件、18日に21件、19日20件、20日9件と減少しながらも地震発生後10日目の1月26日にも神戸市で3件火災が発生した。
災害時の火災には特徴がある。まず第1波は、ガス漏れなどによる同時多発的な火災、第二波として地震後しばらく経てから散発的に発生する「通電火災」である。通電火災というのは、住民が慌てて避難した時に家のブレーカーや家電製品のスイッチを消し忘れたために、電気が復旧した時に電化製品が発熱し引火する火災である。人のいない場所で起るために、火災に気付くのが遅れて大規模な延焼火災に発展する可能性が高い。
消防庁の調べによると、地震から10日間に4府県で285件の火災が発生し、約半数が発火原因の調査ができずに不明、判明した残る139件のうち実に6割以上の85件が「通電火災」だったという。常識として、一次避難する際には電気のブレーカーを落とすことを、家族で周知徹底すると良いだろう。

ピーク時には約260万戸で停電が発生するなどライフラインにも長期間に渡って甚大な被害をもたらした。水道の断水戸数はピーク時に約130万戸だったが、復旧は3ヵ月後の4月17日だった。ガス供給停止は約86万戸で復旧は4月11日。電話不通30万回線を超えたが、NTTによる応急復旧は2月1日までかかった。
鉄道も各線が途絶し、JR東海道線の全面開通は4月1日で、山陽新幹線の全線の運転再開は4月8日。被災地域の全鉄道網復旧は8月までかかった。国道の完全復旧は7月21日(名神高速は7月29日)。神戸線の全面復旧は翌年1996年9月末までかかった。
地震発生後1週間で589ヶ所の避難所に23万7,000人の被災者が避難し、約3万世帯の人たちが仮設住宅で翌年の年を越した。最後の仮設住宅が引き払われたのは4年後の1999年12月20日だった。
大都市を襲った阪神震災は、改めて様々な防災対策に警鐘を鳴らした。震災を契機に震度階級など新たな基準も作られた。現代の大都市直下で発生した初の震災として特筆すべき地震災害である。

Back「阪神・淡路大震災(1995年1月17日)」コメント集 No.1Next
コメント集 No1コメント集 No2
コメント集 No3コメント集 No4コメント集 No5
阪神淡路大震災
コメント募集期間:2002年1月15日~2月4日
阪神淡路震災から7年。2002年の「防災とボランティア週間」にサバイバルフーズの【Seiさんのお店】サイト上のイベントとして広く「阪神淡路震災」というテーマを設けてコメントを募集したものです(参加総数:1,345人)。

兵庫県神戸市

実際に、神戸市長田区で被災したものですが、ひどい目にあったここですら、すでに非常食などを常備している人はもうかなり少ない割合になっていると思います。自分の家では、お風呂には常に水を張っておく、緊急用の4日分くらいの飲料水と、いろんな缶詰くらいは、万が一取り出せなくなることを考慮して家のいろんな場所に分散して備蓄していますが、ここまでしている人はまれでしょうね。
普段は、間違ってもボランティアなどはしたくないですが、大災害時に限っては経験を生かしてボランティアしたいと思います。(ボランティアする、というより災害で困っている人に協力しにいきたいという感じです)

Seiさんのお店、で扱われている缶の商品に一つづつ缶切りがついているのはいいですね。
災害時など非常食がいるようになった時に限って意外とすぐには手に入らないものなんですよ。


大阪府吹田市

山ほど書く事はあるのですがいざ書こうとすると手が止まってしまい、締め切り直前になってしまいました。まだ引きずっているみたいです。

よく「どうして逃げなかったの?」という質問を受けます。
「こっち(関東)じゃその位の地震は珍しくないよ」
「もう終わった事をいつまでも言うのはおかしいですよ」とも。
立つ事も出来ず、一瞬で埋まってしまうような状況でガス栓を閉じて表へ出る事ができるような方はいないでしょう。
そんな事ができるなら誰も死んではいないわけで。

救助作業で一番難航したのは上空のヘリコプターの音でした。
生の情報を全国に流すのも大切でしょう。
しかし それが救助作業を困難にしているという現状も知って欲しいのです。
あの時、生き残った人、亡くなった人。これはもう運です。
何せ家具を壁に固定していても壁ごと倒れ込んできますから。

それでも皆 乗り越えて今を頑張っています。
地獄のような状況で それでも笑って毎日を過ごす人たちがおりました。
だって笑ってないとやってられへんで!そういう友人はやはり関西人。
『私な、地震の時 絶対ポルターガイストや思たんよ!!』
・・・避難所で起こる笑いの渦。関西人で良かった。(私たちだけか!?)

もし。この先神戸を訪れる事があったなら ぜひ メリケンパーク内にある震災時の状況をそのままに残した港を見て下さい。
割れたコンクリート、陥没して海に沈んだブロック。
これはほんの一部分でしかありません。でも真実です。

最後に二度と会えなくなってしまった友人たちの冥福を祈りたいと思います。
私に出来る事は彼女達を忘れない事だけです。
彼女たちは確かに存在して一緒に時を過ごし会った仲間だという事。
家族の方たちも生きているのかどうかも判らず、お線香をあげに行きたくても連絡さえ出来ないままになっていますが いつまでも友達だと思っています。
もう二度と誰も悲しまないでいられますように・・・・。


山口県徳山市

阪神淡路大震災は私自身、家屋倒壊、生き埋め、救出、被災生活など体験し、さまざまな想いを経験しましたが、今振り返って考えると、そのどれもが色々なことについて考えるとても貴重な体験であったと言うことです。人間の強さや弱さ、その全てを経験できたことを有難く思い、災害に遭われる方々の気持ちが少しでも分かり近づけたこと、それが何より得るところであったと思っています。


兵庫県神戸市

地震のあったとき、私はペットのインコと一緒でした。主人は仕事で横浜に行っていました。
すぐ飛び起きて、横浜の主人の携帯にかけましたが地震の大きさがわからなかったのか「すぐおさまるよ。おやすみ。」と言って切られてしまいました。マンション住まいですが、どこともお付き合いをしてなかったので周りの状況がわからず、とても不安でした。
横浜の主人も朝起きて、神戸の地震がただの地震ではないことがようやくわかり、主人の従兄弟に連絡をとり、主人の実家に私を送ってくれることになりました。
その前に私の実家もどうなっているかということで私の実家まで行ったのですが、玄関ドアは開かず、誰もいないようだったので避難先の小学校まで探しに行きました。真っ暗な廊下に毛布にくるまって震えている人、パジャマ姿に上着、サンダルの人、みんな不安そうな暗い目をしていました。私の家族を探そうにも人が多すぎて探すことが出来ず、あとで連絡が取れるだろうということでその場を離れました。
主人の実家から私の実家に電話を入れ、無事を確認しました。
あとでわかったことですが、私の実家の玄関ドアはいつまた地震があるかわからないのでカギはかけずにいたそうです。私が行ったときは開きませんでした。不思議です。
なぎ倒された高速道路の横を通って主人が帰ってきてくれたときは涙がでそうなくらいうれしかったです。抱き合って喜びたかったけど、主人の実家の手前、それは出来ませんでしたが。
生活が落ち着いてきて、主人と私はマンションに戻りました。復旧が早かったのは、電気、水道、ガスの順でした。水が出たときはうれしかったです。水が使えることがこんなにうれしいと思ったことはありませんでした。
余談ですが、淡路島~本州に橋をかけたから神様が怒ったんやと言う噂も聞きました。いろんな噂が飛び交った地震ですが、私には人のやさしさ、醜さがものすごく見えてしまいました。
地震のときは何も備蓄品がなかったのですが、もしものときに備えは必要だなと思いました。


山口県山口市

主人の同僚数人が当日神戸出張で、朝早くからホテルを出なきゃいけない状態だったのですが、一人がトイレで遅くなり、それじゃ出発って時に、もう一人がタバコの自販機にタバコを買いに行って少し遅くなり、ホテルを出ようと思った瞬間に地震が来たそうです。
ほんの30秒か1分くらい出るのが遅くなったらしいのですが、後でホテルの出口のそばを見ると、壁が崩れ落ちており、同僚がタバコを買わなければ、またトイレが遅くならなければ全員が落ちてきた壁にやられていたかもしれないと言っていました。
禍福はあざなえる縄のごとしで、人間何がいいのかわかりませんね。


埼玉県さいたま市

阪神震災時、その時私が付き合っていた彼は知り合いの名前が犠牲者に載ってるかもと大騒ぎでした。良く覚えています。
それから数ヶ月して、神戸に旅行に行きました。電車は震災の爪あとを観光にされたくない気持ちからか、所々でガラスにスモークがかかったのも覚えています。
これからの事を考えて、何時までも防災の気持ちを忘れないようにって思います。
そして、最近はテロ!そのお陰で、うちの主人は会社から海外旅行禁止令がだされているそうです。上司で、親戚の結婚式でハワイに行きたいという人が所長に「行くのは良いが、今の職場の現状を踏まえ自分で判断するように」とか言われたと・・・くわばらくわばら!


静岡県榛原郡

今年で7年ですね。私の拘りで10年は神戸から品物を買おうと決心して、年末には額装を依頼しました。もう少しでケーキも届きます。結構、気分は良いのですが、助かっていれば良いのですが・・・。


大阪府大阪市

震災の時は兵庫県尼崎市の銀行に勤めていました。
私の自宅は当時高槻で震災当日は地元の支店で私服で業務し(営業していない銀行が多い中で受験料の振込期限がその日と言う学校も多かったので店頭は目まぐるしくいそがしかった)翌日とりあえず勤務地までは電車が動くと言う事で出勤したらいつも見慣れていた電車の窓からの景色がどんどん破壊された景色に変わっていき、店も亀裂が入っていました。震源地方面から通っていた同僚の四人に一人は連絡も取れていなくてしかも細かい余震の嵐。書類の棚は火事でもあったかのように捻じ曲がり、同期入社の子のお父さんが亡くなりました。
辛いのはその時の異常事態よりその後の被災地に住む方達の精神的ショックでした。
ある先輩は焼け死んだ友人の叫び声が毎日聞こえてくると言い、また、ある先輩は家族とはなれるのが恐いと会社を辞めました。同期の子は1年経っても夜パジャマで寝るのが不安でトレーナーにジーパンじゃないと寝られないと言ってました。
被災者向けの特別融資で色んな方が来店されましたが、皆さん毎日忙しいけど何をしていいのかが良く判らないと言ってました。
・・・全部人の話ばっかりですよね。
あまりにすごくって「気持ち判る」とか「私も恐かった」とか安易にいえません。
きっと、今もまだ苦しんでいる人、多いんでしょうね。


広島県広島市

「まだ朝早くに地震が起こりました。」とは、いっても三百キロ以上離れた広島県呉市で揺れを感じました。
「ちょっと大きな地震だったね。こわかったね。」と言いながら主人と二人で床に就きました。朝のニュースをテレビで見るまで何があったのか全然知りませんでした。
ボランティアに行くことになり、地震からしばらく経ってから伺うと、「はじめのうちはたくさんきてくれるけど、だんだん来てくれなくなり、平日には誰も来てくれないんだ。」継続していくボランティアが必要なんだ。と痛感しました。

去年、芸予地震 を経験してみて地震の恐ろしさを体験しました。ちょうど春休みの初日だったので、子供を二人で、高速バスに乗せて、祖母の家に向かわせていました。
時間がずれていたので、無事に着きましたが、電話も通じなくてとても心配しました。
その日は、子供を送り出してからなぜかホームセンターに行き、地震対策の家具転倒防止の突っ張り棒を手にとっていました。その途端に地震が起きたのです。こんなタイミングで地震が起きるなんて思ってもいなかったので、びっくりするやら、おそろしいやらで、こしはぬけるし、大変でした。それから地震対策を考えるようになりました。
でも、何をどのくらいあると良いかとか、具体的はわからないので、またいろいろ教えてください。お願いします。


大阪府交野市

もう7年も経ってしまったのですね…
このテーマは、いろいろ考えさせられてしまいます、、、
震災後は、防災についていろいろあたふたと準備したりして、眠れぬ夜を過ごしたのに・・・
あの、ごぉ~~~~~っと言う地響きのような大地の怒りを背中で感じて飛び起きた恐怖は、今も忘れていないはずですが、今は何の備えも無く安穏と日々を送っているだけです。

あの時、恐怖や、現実からの逃避で、ボランティアに参加する勇気も無く・・・
自分の小ささを痛感した出来事で、今も胸が傷みます。


京都府京都市

震災時は福井・小浜に住んでいたが、未明の突き上げるような衝撃で目を覚まし、あわてて若狭湾沿いにある原子力発電所の安否を確認した。静岡県の浜岡原発は震源に近い立地だけに恐ろしさがつのる。

活断層は年々調査が進んでいるが、経済産業省をはじめ、電力各社はその危険性を認めようとしない。チェルノブイリの例があるのに、ドイツのように原子力放棄の方向さえ出せず、電力会社は、過去の「原発は安い」の辻褄合わせに新たな助成を求めようとしているし、経済産業省は、こじつけの「原発による温暖化防止」を未だに捨てきれないでいる。各立地先にオフサイトセンターを作っても、ほぼ日本を覆い尽くす危険に目を向けようとしないのは大きな矛盾だ。


埼玉県南埼玉郡

鳥取県鳥取市で、震災の余波に遭いました。その時、ベッドの上に置いてあった、テレビが落ちてきて、頭に一撃を喰らい、血だらけになりながらも、高速バスに乗るため、荷物をまとめていました。
まったく情報のない午前6:30。震源地は日本海側だと勝手に判断して、神戸経由のバスのチケットを買っていたので、そのとおりに三宮行きのバスに乗り込みました。
しかし、待てど暮らせどバスは一向に三宮に到着しない。バスの中では、ラジオの安否情報が流れていました。
「山崎」とかいう町のドライブインに休憩を取ることになりました。
埼玉の実家に電話をしようにもまったくつならない。なんとか何度もかけて、つながったのですが、実家にいるじいさんは、恐ろしいことを言っていました。
「どうやって帰ってくるんだ!高速も新幹線もおっこっちゃったぞ!」
バスは当然三宮には行かず、予定より50キロ離れた姫路に到着しました。
そのまま引き返せばいいものの、三宮発のバスのチケットをすでに買ってあり、新幹線に乗るお金も、あるにはあったもののそのまま姫路に降り立ったのです。
土地感のない私には、「三宮まで歩けばいいことだ」と、なんともバカなことを考えていたのです。
案内標識を見ると、「三宮50km」呆然としました。仕方ない、歩かないと帰れない」
その時まだ、神戸が崩壊状態になっているなんて思ってもいなかったのです。
国道を三宮に向かう・・・それは長く、恐ろしい道でした。
倒壊した高速道路を横目に、私はひたすら歩いたのです。
渋滞にはまっている車のドライバー(40歳くらいの女性)が私に声をかけてきました。
「ほら乗って!乗って休みなさい!」
さすがに疲れていたのですが、・・・・ねえ。
「ほら、顔血だらけやないの!どこから歩いてきたの。フラフラやし。」
朝テレビに噛み付かれた頭からまた出血していたのです・・・
「今みんな困っとるんや。こういうときはお互い様やで。はよ乗りや!少し休みぃ」
私に、菓子パンとペットボトルのお茶をくださいました。

「長すぎるぞ!」とエラーが出てしまいましたので、ここまでしかかけませんでした。
その後も歩き、血を出し、死体を担いで・・・・いろいろありました。


愛知県名古屋市

名古屋に住んでいます。
常日頃から、避難用品をそろえなければ、と思いつつ、まだそろえてません。。
実家には、ちゃんとリュックも用意してあるんだけど、母は、果たしてしょっていけるのだろうかというくらいの重さになってます。

阪神・淡路大震災の時は、友人が神戸の東灘区に住んでおり、連絡が取れるまで心配してました。名古屋からいけるものなら行きたかったんだけど、地理も何もわからない者が行っても、足手まといになるって、親に言われ、なくなく行けなかったです。
兄が尼崎に住んでいて、地震の前の晩、まだ1歳の子供が、いつも寝るときは、ベッドで静かに寝てくれるんだけど、そのときは、泣き叫んでなかなか寝てくれなくて、ベッドには寝かせず、お義姉さんが一緒に布団で寝たそうです。
そして、地震。起きたら、熱帯魚は、大きく激しい揺れのためショック死。
食器は割れているものもあったそうです。
一番驚いたのは、ベビーベッドに隣のタンスの上に置いてあった棚が落ちてたとの事。
もし、昨日あのまま、ベッドに寝かせてたら、1歳の姪っ子の命は。。。。
何かを予知してたのかもと兄たちはいつも話しています。

去年くらいから、日本中あちこちで、地震があるので、とあるサイトで、地震情報がわかるところを毎日行く。
気になる東海地方があまり地震がなくて、和歌山県北部・奈良県南部・紀伊水道のあたりが多いことに気づく。なんだろうか。。。。。


岩手県岩手郡

岩手県人ですが・・・。あの地震の時は、京都にいました。その日に帰宅予定だったので前日の夜に宅急便で荷物を岩手に送り、子供達と軽々とした気分で居た所・・・。
明け方あの地震です。ホテルの窓ガラスもわれてびっくり。まさかこっちで地震に合うと思いませんでした。結局、駅に行っても新幹線も動かず、子供ともう一泊京都に泊まりましたが・・・。下着もぜーンぶ送ったので・・・。はくものも無く手、子供は、お風呂の後にパンツを洗って一晩ノーパン。やっぱりすうすうしたのか・・・。その晩、新幹線の中で、発熱しました。


大阪府堺市

応接間の窓ガラスは前日の来客の喫煙のため、開けて寝ていました。そしたら、震災で、壁にヒビが入りました。驚きました。
賃貸業を営んでいた実家をそそのかして?震災に遭われた方に空き家にしばらく住んでいただきました。

あの時のことがトラウマとなってまだ寝られないという方もおられるのだろうなぁと思うと、どうしてよいか、何をしてよいか、わかりません。


愛知県名古屋市

阪神淡路大震災は,本当にお気の毒でした。
ところで,防災について,よく行政の批判をする人がいますが,身勝手な考えだと思います。何もかもいたれりつくせりのサービスを要求するものではありません。自分の身と財産は,自分で守るべきです。権利意識の強い人に限って,人のために尽くすことをしないのではないでしょうか。日ごろから,備えを万全にしておくべきです。


宮城県白石市

阪神震災はテレビで見て知った 信じられなかった そのあとのいろいろな報道を聞いていて思った事は 自分達が見ていた画像を撮っているヘリコプターの音が下で救助している人たちに迷惑になっていたということを聞いて 報道のあり方が問われたことになった 今考えれば 交通渋滞がおこっていたので それをカバーするためにヘリを使ってもよかったと思う 今後の報道各社の改革を望む 


愛知県知立市

当時電話会社に勤めていたので震災のため不通になった回線の復旧作業をしに、大阪支店に転勤になりました。長田区は一番被害が大きく一面焼け野原で辛く複雑な思いにかられました。愛知に移り住んだ今は東海大地震が予想されているのもあって防災グッズを常備しています。


岩手県宮古市

あの時は震災後の大火災の映像を見てとてもぞっとしたことを覚えています。都市部で大規模な地震に直面して運良く生き延びることができたとしても、その後のライフラインの復興がされるまでの備えというものの大切さをあの震災を通して感じたはずなのですが、7年もの歳月が経った現在、すっかりそんなことなど忘れて毎日を過ごしております。やっぱり忘れたころに突然わが身に降りかかってきてから後悔するのでしょうね。


兵庫県明石市

阪神・淡路大震災がおきた時の感想は、「家が崩壊する」というぐらいの振動を感じました。幸い自宅の損害は瓦が若干崩れたことと、家具のガラスわれたぐらいでした。ライフラインは水は井戸水、ガスはプロパンで問題なしで電気も早めに回復しました。


京都府長岡京市

京都在住です。あの時はほんとこわかったです。停電して暖房機具はつかえず,電話も黒電話じゃないのでつかえず。でも神戸ではものすごい状況でびっくりしました。あれから,一応なにかの時用リュックをつくって携帯用非常食などいれてます。


石川県金沢市

私の住んでいるところも30年以内に大規模な地震があると発表されました。現在4階建ての2階に住んでいるのでとても心配です。


東京都新宿区

私の大学時代の教授が、「阪神大震災は予知できた」と言っています。
本当なんでしょうかね?


 ■店長コラム 地震予知について... [2002.2.4]

神戸地区は20年以上昔から地震の起こる危険性を地震予知連絡会により指摘されていました。観測強化地域といって危険度の高い全国8地域の中の一つが神戸地区でした。
ただし国内で本当の意味で地震予知体制の整っている地域は駿河湾からその沖合いを震源域とする東海地震だけと言われています。地震予知は地域と規模が予測できても何時起こるかの予測は不可能と言われ、活断層からの大地震の予測は、その場所や規模については実用的な精度での予測が可能とされていますが、その発生時期の予測は現在でも「今後数百年以内に大地震の起こる可能性」という統計学的な試算です。
そのため学者以外の方々にはあまり大地震予測情報が浸透しない傾向があります。
「百年以内」という学問的な数値は「百年は地震が起こらない」と勘違いされますが、統計上は「百年以内なら明日、大地震が起こっても不思議でない」という意味です。最近は「今後30年以内にどこどこの地域で大地震の起こる可能性何%」という試算も公表されています。

「M8クラスの大地震が100年以内にいつ起こっても不思議でない」とされていた阪神・淡路震災の教訓を生かすことの本質は、以前から報告もされていた情報を「予知されなかった震災」と社会が無視してしまわないことにあると私は思います。
また、これもほとんど知られていませんが、阪神淡路の震災の原因となった活断層である有馬~高槻~六甲断層帯系も1995年の震災では南側だけのエネルギー放出と言われており、北側は未だ動いていないために注意が一部で叫ばれています。
近年、阪神規模の地震が起こると言われている要注意の断層帯(地震調査研究推進本部地震調査委員会による動作周期の満期を迎え何時M8クラスの大地震が起きても不思議でないとされる活断層)は以下の通りです。

  神奈川県 神縄・国府津~松田断層帯
  静岡県 富士川河口断層帯
  新潟県 糸魚川~静岡線活断層系

阪神淡路の震災(兵庫県南部地震)から得た教訓を生かそうとする国や行政の努力を本当に生かせるかどうかは私たち市民レベルの防災意識も大切なのではないかと思っています。

Back「阪神・淡路大震災(1995年1月17日)」コメント集 No.1Next
コメント集 No1コメント集 No2
コメント集 No3コメント集 No4コメント集 No5

その他、地震(震災)に関する参考資料集

日本における「主な直下型地震の発生確率一覧」
日本における「主な海溝型地震の発生確率一覧」

東京都(全5,099地域)地震に強い地域・弱い地域ランキング

緊急地震速報について

2004年 新潟県中越地震 の震度分布
新潟県 中越地震


■1995年 阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の震度分布
阪神淡路震災についてアンケート調査コメント集
阪神淡路震災(兵庫県南地震)


1923年 関東大震災の震度分布(大正関東地震)
関東大震災


■2001年 芸予地震の震度分布
2001年 芸予地震
■2003年 三陸南地震の震度分布
2003年 三陸南地震[M7.0]
三陸南地震の図は出典:内閣府[広報ぼうさい(No16号)]
●参考資料●相模トラフ沿いの地震活動[2004.8.23]

主な関東(首都圏)の地震年表

発生日名称規模死者負傷者
2005年7月23日千葉県北西部地震M6.0038
1992年2月2日東京湾南部地震M5.9034
1987年12月17日千葉県東方沖地震M6.72161
1956年 9月30日千葉県中部地震M6.304
1923年 9月 1日関東大震災  ●関東大震災 解説M7.9142,807103,733
1922年 4月26日浦賀水道地震M6.8223
1921年12月 8日茨城県南部地震M7.000
1915年11月16日房総半島群発地震M6.005
1895年 1月18日茨城県南部地震M7.2968
1894年10月 7日東京湾地震M6.700
1894年 6月20日明治 東京地震M7.031197
1855年11月11日安政 江戸地震M6.910,000多数
1853年 3月11日嘉永 小田原地震M6.7100多数
1782年 8月23日天明 小田原地震M7.0有り有り
1703年12月31日元禄地震M8.210,000多数
1697年11月25日元禄 鎌倉地震M6.5不明不明
1633年 3月 1日寛永 小田原地震M7.0150多数


※震度分布の画像について:
三陸南地震についての画像は、内閣府発行の広報誌[広報ぼうさい(No16号)]より画像引用しています。それ以外は、Seiさんのお店で作成したオリジナルです。
その為、三陸南地震の画像についてはHP等で使用・引用しないようにして下さい。それ以外の震度分布図の画像は、もしご入用でしたら、個人・法人問わずHP等で自由に利用下さって構いません。

COPYRIGHT© 2016-2022, Sei Enterprise,Inc. ALL RIGHTS RESERVED
サバイバルフーズ