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防災情報TOP >> 阪神淡路震災[1995年] >> コメント#2

阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)概要


阪神淡路大震災 (兵庫県南部地震)
1995年1月17日 AM5:46 M7.3 16km
死者6,434人、行方不明3人、重傷10,683人、軽傷33,109人
全壊家屋104,906棟、半壊家屋144,274棟、一部損壊家屋390,506棟
道路被害7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖くずれ347箇所
ブロック塀等の倒壊2,468箇所

■阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の震度分布
阪神淡路大震災の震度分布
震度表
平成7年(1995年)1月17日(火)午前5時46分、淡路島の北東約3kmの明石海峡付近の深さ16kmを震源とするM7.3の地震が発生した。
正式名称「平成7年 兵庫県南部地震」

神戸市須磨区鷹取、長田区大橋、兵庫区大開、中央区三宮、灘区六甲道、東灘区住吉、芦屋市芦屋駅付近、西宮市夙川等、宝塚市の一部、淡路島北部の北淡町、一宮町、津名町が震度7烈震。神戸と洲本で震度6、京都、彦根、豊岡で震度5、岐阜、四日市、上野、福井、敦賀、津、和歌山、姫路、舞鶴、大阪、高松、岡山、徳島、津山、多度津、鳥取、福山、高知、境、呉、奈良で震度4を観測し、広い範囲で揺れを感じた。
被害は震源域付近の神戸市が甚大で、東灘区では阪神高速道路神戸線の橋脚が折れ635mに渡り横倒しとなった。埋立地である六甲アイランドやポートアイランドでは、島全域で液状化現象が発生し、地盤が約50cm近く沈下した。神戸市兵庫区の神戸高速鉄道「大開駅」では、地下1階の改札口から下のホームまで大きく陥没した。神戸市中心街の三宮では、一階部分から大型ビルが折れまがり、そのままの状態で道路を塞いだ。南北に走る幹線道路には大きな亀裂が走り、50cm近くも盛り上がるなど路面が波打った。三菱銀行兵庫支店やダイエー、8階建ての神戸市役所も6階部分から折れ曲がるという座屈現象も起こし、オフィス街のビルの約2割が瞬時に使用不能となった。
地震の直接被害はオフィス街よりも木造家屋の密集地が深刻だった。神戸市灘区の阪神大石駅東側付近では、家屋のほとんどが倒れ倒壊率がほぼ100%近くに達した場所も出た。地震により神戸市を中心に約十数万棟の家屋が一瞬にして倒壊、早朝だったために就寝中の人たち約4,800人以上が倒壊した家や家具の下敷きとなって圧死した。兵庫県南部地震で特徴的なのは犠牲者の9割近く(84%)が家屋倒壊による圧死者だったことだ。倒壊家屋は、木造だけでなく鉄筋建築物にも見られたが、後の調査で、昭和56年(1981年)以降(いわゆる新耐震基準)に建てられた建物は比較的に被害が少なかったことが判明し、震災を契機に、同年12月には耐震改修促進法が施行され、地震調査研究推進本部も発足した。
人口が密集した大都市部の地震では、二次災害の火災が大きな被害となる。兵庫県南部地震も地震直後に、神戸市の52ヶ所で一斉に火の手が上がった。周辺住民による消火活動が行われたが、放水をはじめた直後にホースの水は止まってしまったため、火の延焼を食い止めることができなかった。神戸市の水道管は各所で破壊され、約2万4千ヶ所の消火栓のほとんどが使用できなくなったからである。神戸市は家屋6,912棟が全焼(うち4,730棟が長田区)し500人以上が焼死した。
全体の火災を時間帯別に見ると、半数は地震直後14分間に発生した火災だったが、地震発生から数時間以上経過してからも少しずつ発生している。発生当日の1月17日の火災件数が206件、18日に21件、19日20件、20日9件と減少しながらも地震発生後10日目の1月26日にも神戸市で3件火災が発生した。
災害時の火災には特徴がある。まず第1波は、ガス漏れなどによる同時多発的な火災、第二波として地震後しばらく経てから散発的に発生する「通電火災」である。通電火災というのは、住民が慌てて避難した時に家のブレーカーや家電製品のスイッチを消し忘れたために、電気が復旧した時に電化製品が発熱し引火する火災である。人のいない場所で起るために、火災に気付くのが遅れて大規模な延焼火災に発展する可能性が高い。
消防庁の調べによると、地震から10日間に4府県で285件の火災が発生し、約半数が発火原因の調査ができずに不明、判明した残る139件のうち実に6割以上の85件が「通電火災」だったという。常識として、一次避難する際には電気のブレーカーを落とすことを、家族で周知徹底すると良いだろう。

ピーク時には約260万戸で停電が発生するなどライフラインにも長期間に渡って甚大な被害をもたらした。水道の断水戸数はピーク時に約130万戸だったが、復旧は3ヵ月後の4月17日だった。ガス供給停止は約86万戸で復旧は4月11日。電話不通30万回線を超えたが、NTTによる応急復旧は2月1日までかかった。
鉄道も各線が途絶し、JR東海道線の全面開通は4月1日で、山陽新幹線の全線の運転再開は4月8日。被災地域の全鉄道網復旧は8月までかかった。国道の完全復旧は7月21日(名神高速は7月29日)。神戸線の全面復旧は翌年1996年9月末までかかった。
地震発生後1週間で589ヶ所の避難所に23万7,000人の被災者が避難し、約3万世帯の人たちが仮設住宅で翌年の年を越した。最後の仮設住宅が引き払われたのは4年後の1999年12月20日だった。
大都市を襲った阪神震災は、改めて様々な防災対策に警鐘を鳴らした。震災を契機に震度階級など新たな基準も作られた。現代の大都市直下で発生した初の震災として特筆すべき地震災害である。

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阪神淡路大震災
コメント募集期間:2002年1月15日~2月4日
阪神淡路震災から7年。2002年の「防災とボランティア週間」にサバイバルフーズの【Seiさんのお店】サイト上のイベントとして広く「阪神淡路震災」というテーマを設けてコメントを募集したものです(参加総数:1,345人)。

兵庫県神戸市

私の家は住所をみてもおわかりのとおり、阪神大震災で家が全壊になりました。
TVとかでも出てたマンションで再建に2年の歳月がかかりました。
ウチのマンションが神戸で第一号の再建マンションということでTVにも放送されたのですが40件の世帯がそれぞれ再建に賛成なわけもなく、話がまとまるのに数ヶ月かかりました。
震災当時、近くの小学校に避難して学校の講堂で2ヶ月暮しましたが2・300人イモを洗うようなザコ寝でプライバシーも心のケアもあったもんじゃありませんでした。
それでも、ボランティアの方や自衛隊の方がずっと、食料や水をなるべく平等に配っている姿をみて悲観してるだけではなくて、自分にできることは何か?と考えプールの水をバケツで運んだりもしました。今になってみれば良い経験だったと思います。あのことがあったからこそ今家族3人以前より信頼し結束固くなっています。
神戸の街は多くの命や財産をなくしたばかりではないと思いたいです。
今まだ苦しんでる人はいると思いますが、前をみて生きるということを考えさせられ、また自然の中で生かされてる事実を知りました。
今度同じような大地震が来たら、自分には何ができるのか?今ならすぐに答えがでそうです。

上で多く語ってしまったので…。あ、学校の講堂に避難中、寒くて凍ってしまったおにぎりを配ってたのですが、お湯の入ったポットのなかにビニールをいれ、その中におにぎりをいれて暖めました。ガスは来てなかったのですが、電気は地震後何時間かで復旧したので。
いろいろ周りの人と知恵をしぼって生活してました。


神奈川県中郡

私は、看護婦です。現在CCU(心臓の集中治療室)に勤務しています。阪神淡路大震災を実際に病院で体験したと言うスタッフの書いた本を読みました。今現在の自分の勤務している現場を考えるとすごく恐ろしい事で、私には何が出来るのか?ととても不安になったのと同時にその現場で自分の危険もよそに、患者さんを優先に考えて働いていた人達が大勢いたことに感動しました。大震災の時は、まだ看護学生だったのですが、今は、現実に自分の身にも起こりうることとして、病棟でも何回か話し合っているのですが、自然災害の場合には、最新の機器よりも、人力が一番だという事だけは確かだと思っています。


愛知県知多市

阪神大震災の時は大きく揺れはしたものの、そんなに大事になっているとは知らずまた寝てしまった愛知県民なのですが、洪水を経験しました。。幸いにも床上浸水などにはならず、直接被害はなかったのですが、大雨の中、車を運転した時の恐怖、そして家には私しかいなかったので(主人は駅で立ち往生)孤独もいっそう恐怖でした。
ライフラインが止まってしまったら・・とか色々と考えていました。
災害に対する準備などなにもしてませんでしたから・・。
豪雨以来、少しずつ災害に対する備えも始めようと思い、ちょっとずつそろえてます。今後、東海地震が起こる可能性があるので、不安です。


兵庫県城崎郡

阪神大震災の際には、自治体ボランティアとして、2週間滞在しました。震災後1週間がたっていた時期にいきました。食料はインスタント、弁当等あふれるほど届いていました。ただ、その物資が届くまでの3日間が勝負だと言われていますが、それは本当だと思います。


静岡県静岡市

建築業なので、住宅の耐震にはとても関心があります。阪神淡路大震災を教訓にいろんな組織が結成されていますが、どれも実態は不安なものばかりな気がします。ボランティアでできる事をやるのは当然だけど、順序やルールなどあらかじめ決めておかなければうまく機能しないのも確かだとと思う。行政を中心に無駄なく復旧できるように改善が必要だと思う。


東京都北区

震災の被害にあわれた方々に、お悔やみを申し上げます。阪神淡路大震災の日、私は大学の休みの日でいつまでも寝ていたんです。そうしたら母に「いつまで寝てるの!大阪の人は今大変な事になっているのよ!!」と起こされました。「大阪がどーしたのー」と私はチンプンカンプンでしたが、その訳はテレビをつけたらすぐ分かりました。大阪には1度も行った事がないという事は関係ないと思いますが、ここは今現在の日本のどこかなの?とゆうような気持ちになって、大阪だって事がすぐピンときませんでした。それから毎日のように情報で被害の状況を見ていると、海外で起こった地震と違ってものすごく自分自身にもおきかねない事なんだなーと痛感してきました。また、ボランティアについても考えさせられました。最近でいえば、ニューヨークのテロですがアメリカのボランティアの方は自分の仕事を辞めてまでボランティアに参加しているとか、ボランティアを希望している人数が多すぎてお断りしている事もあるとか・・。それを見ているとアメリカのボランティア精神はものすごいなと思いました。果たして、自分がその現場にいた時、行った時そのような行動が取れるか分かりませんが、いろんな情報を得て沢山の人の役に立てる行動を取りたいなと思います。それと同時に自分自身と守るべき家族の命もかかってますので、日ごろから防災対策をして行きたいと思いました。

そういえば我が家って、懐中電灯もないんですよねー。しかも非常食も。そろそろ本気で用意します。富士山が噴火するって話もあるし・・(本当なんでしょうか?私はまだ信じてませんよ)小さい頃、家にあった防災リュックの中のカンパンをおやつに食べてました。水も飲んじゃったし。ごめんね、かってに食べて、お母さん。


奈良県奈良市

僕は同じ兵庫県人ですが、県西部地域だったのでそんなに被害はなかったのです。まじめに正直な気持ちを述べますと、僕の地域ではなくてよかったと言うのが本心でした。世界中で色々な災害が起こっておりますが、人間の奥底はこれが正直なものだと思います。不謹慎なようですが、1995年1月17日に僕が思ったことです。


神奈川県横浜市

私は実家の神戸で地震を経験しました。数日間の断水と停電、食器が壊れた程度の被害ですんだ我が家でしたが、窓から見える長田(被害が大きかった)の地域は本当に怖かった。見たこともないような大きなキノコ雲が真っ黒に上がっていて『これがキノコ雲か…』とその時実感しました。空は、小さい頃いたずらでいろんな絵の具を混ぜてできたような説明しようがない不気味な色だし、あの時はすべての物・事がこの世のものではないような、何もかもがリアルじゃなかった。あれ以来、少しの揺れでもビクッとして心の底から怯えてしまうし、特にあの時と同じように寝ているときの地震は本当に怖くなって、おさまってからも寝られなくなります。あんな怖い体験をしたのに我が家には防災グッズがない。神戸の人たちもほとんどそうなんじゃないかな?人間が忘れる生き物だから?違うと思う。自分の身をもって体験したことだからこそ、あの体験はみんなにとってリアルじゃなかったんだと思います。怖すぎて。今後またあんな地震が来たら…?それに備えて…?怖い体験だったからこそ、そんなこと想像もしたくない。考えずに、触れずに、このまま幸せに一生を終えられたら…っていう意識が心のどこかにあるんではないでしょうか?でも災害なんていつ誰の身に降りかかるかも分からないんですもんね。私も子供を産んで、自分の守るべきものが『自分の命』以外にもう一つ出来てしまったので、真剣に考えたいと思います。


兵庫県三田市

その時、目が覚めた!何か分からなかったが、とっさに、家へ、TEL,むなしくベルが鳴り響くだけでした、神戸に何が!私は六甲山のふもと近くに住んでいた時でした。
車を出して急いで実家に無残な姿でした、、もう、気が狂わんばかりでした、主人の実家も半分も倒れ、、でも、怪我はしているけど、無事でした、私の方は、、だめでした、、
 あれから、8年になったなかな、、小さな地震があっても、思い出して、、
でも、主人が側にいてくれるので、安心ですが、、
 対策は、少し大きめのバッグに着替え、クラッカー、缶詰、水、缶きり、カッター、など入れています。妹は防災マント購入しています。


北海道札幌市

被災者の方にはお悔やみもうしあげます。阪神淡路大震災のあったそれから5日後親戚が亡くなりました。その前からアルコール中毒で入退院を繰り返しており精神的に疲れていたらしく自分で家に火をつけて・・・
叔父の話だと震災のニュースを見て「自分がここにいればよかったのに」といっていたようです。被災者ではないけれど私にとっては子供の頃から遊んでくれてた親戚なので今でもこの時期がくるとつらいのです。
ある意味親戚も被災者の1人かもしれません。
月日とともに忘れ去られていくことが多いですが、どうかもうこのような震災はおきてほしくないです。そしてみんなにも忘れずにいて欲しい。


愛知県名古屋市

当時、私は、名古屋で、本屋の店員をしてましたが、一人暮らししていたマンションもかなり揺れ、(6階に住んでしました)店に来るお客さんにも、神戸から実家を頼ってやってきた人や、身内が神戸にいて、連絡が取れないと心配してる人、着の身着のままでやってきて、お風呂にも入ってないから、銭湯や、美容院の場所もよく聞かれました。
地理的には離れていても、すごく身近な問題に感じたのを覚えています。

災害は、ない方が良いに決まってますが、富士山も、爆発するなんて噂もチラホラ聞こえてくるし、ニュースは毎日チェックして、こまめに、情報収集して、いざというときに慌てないように出来ればと思っています。


長野県南安曇郡

友達にも阪神淡路大震災に罹災されて、近くに越してこられた方がいっらしゃいます。話を聞くと本当にぞっとします。
とはいえ我が家もフォッサマグナの真上にあり、防災には心がけています。


埼玉県さいたま市

あの阪神淡路大震災の後に、防災袋の中身をチェックして、増やしたりしましたが、5年目に賞味期限切れの食品を食べたり、処分したりした後の補充をしていません。このアンケートでまた思い出しましたので、近いうちに非常食品買い出しに行って来ます。


石川県松任市

こちらのサイトを拝見するようになってから防災に対する意識が芽生えました。
こちらのガイドを参考に非常用の持出袋を用意したり備蓄食糧をとりそろえたり。

年末年始は特に気張って寝室と居間に非常袋おいてました。
「家族の命は私が守るのよ!!」ってなもんです。
まあ、いまではホコリかぶっちゃってますが・・・。


兵庫県神戸市

自然の猛威に対しては人は無力なんだ、ということを痛感させられましたが、助け合うという人間の本質にも気付かされましたね。ボランティアの方の活躍には感動させられました。


長崎県長崎市

私が遭遇した災害(記憶にある限り)は、昭和57年7月23日長崎大水害、(平成3年6月の普賢岳大火砕流(友人が殉職))、平成3年9月の台風17号・19号、平成5~6年西日本の少雨渇水…こちらは地震より毎年来襲する台風や梅雨末期の豪雨への備えが重要視されています。


東京都調布市

神戸に友達が何人かいます。幸い震災では皆無事でしたが、恐ろしい話をずいぶん聞きました。不思議なのは、話を聞いた私のほうがよっぽど真剣に防災を考えていることです。
関西人らしい明るさとでも言うのでしょうか。意外に防災には関心が薄いようなのです。
私の友達だけなのでしょうか?


宮城県仙台市

もっと 地域で防災訓練とかやって欲しいと思います。実際に どこに避難すればいいのかよくわかっていない人が多いと思うので。


青森県三沢市

私は、平成5年に発生した北海道南西沖地震の被災者です。
震災後、様々な方が被災地へ来ました。被災者のためにがんばろうとされている人。この時とばかりに自分の信じる宗教を広めようとする人。はては泥棒まで。
人間には、さまざまな人がいることを実感しました。


東京都北区

災害時気になるのが、お互いの安否、簡単に素早く正確に確認できるシステムが欲しいです。


宮崎県宮崎市

当時、僕は徳島に住んでいました。徳島でも震度4ぐらいだったでしょうか?津波なんかが気になってテレビをつけて、だんだん時間がたっていくうちに情報が入ってきて、大変なことが起こったことに気づき、言葉を失いました。ちょうど震災から1ヶ月程して、仕事で訪れる機会があったのですが、町の皆さんとお話してても、元気でがんばってる人、憔悴しきってる人その表情は様々でした。もし今後、自分が同じ目にあったらどこまで対応できるか、不安さえ覚えたものです。実は、この震災がきっかけで自分も「非常食」なるものに興味を持ち、スーパーなどに行くと今でも、「お、これは良さそう。」などと缶詰とにらめっこしたりするようになりました。やっぱり、市販の食品では、缶詰の賞味期限はせいぜい長くて3~4年。年3回のペースで点検して、賞味期限の近いものは食べて買い足す。などということをしてます。しかし、25年も持つとは、びっくりしました。本格的ですね。でも、はっきり言って初めて知りました。通販とかじゃないと手に入らないのですか?どこかで展示販売とかしてないんでしょうか?


山形県酒田市

先日、近所で火災が発生しました。話に聞くと当事者&近所の方は慌てふためいて、最初に何を持ち出すかさえ分からなくなるとの事でした。 日頃から災害等に備えて 必要なものをまとめておくのも大切だと考えさせられる出来事でした。
また、日頃の防災用食料はスーパーなどで売られている缶詰やクラッカーしか知らなかったので こちらのHPで紹介されている様な商品があることも知らずにいました。
もっと宣伝して、取扱店を増やしてほしいです。(HP以外の販売も)
ちなみに我が家では防災リュックを玄関に用意してますが、先日点検してみたら 賞味期限が切れていたのですが だいじょぶかなーっと思い、家族でたべたしまいましたー!


三重県四日市市

阪神淡路大震災はは私の人生でももっともショッキングな出来事でした。発生後10日ぐらいしてから被災地を訪ねましたが、倒壊した家屋がそのまま放置されている姿や青いビニールシートがかけられていたのをよく覚えています。悲惨な風景でした。小学校などで活躍するボランティアとも接触を持ちましたが、本当によくやっていました。機能麻痺した行政と対照的に柔軟に活動されていたと思います。私も一自治体の職員として有事のことを考えてる立場ですが、大震災のときの初期活動の遅さ等自治体の無力さも感じたものです。また、ボランティアとの有機的連携を日ごろから考える必要を痛感しました。この教訓が全国で活かされることを願うものです。


大阪府大阪市

当時、私は妻と一才の長女と、マンションの四階に住んでいました。
揺れ始めと同時に、私も妻も目を覚ましましたが、揺れは収まるどころか、ますますすごくなり、建物のきしむ音や、食器棚の倒れる音が聞こえてきて、「このマンションはもたない!もうだめだ。」と覚悟したのを今でも覚えています。
とっさに妻と二人で子供に覆い被さり、どうかこの子だけでもと行動できた自分達にもおどろいた日でもありました。
私達は幸いにも、家具類だけの被害ですみましたが、今でも地震にはすごく敏感です。その後のニュースで、食料や毛布といったものを、用意しておくことがいかに大切か、よくわかりました。
今では食料を除き(子供が見つけてすぐ食べてしまう。笑)非難バックなるものが、常時場所を取っています。
たくさんの人が亡くなり、たくさん人が悲しんだあの出来事。
その中から、たくさんの事を学び、この子達(今3人)に伝えていきたいとおもいます。


兵庫県神戸市

私の家も半壊で1年以上水道が使えなくて、水では本当に苦労しました。
でも、もっと苦労した(今も苦労している)人がいるんだからこんなことぐらいで泣き言はいえないか・・・


愛知県名古屋市

あれからもう7年ですね。私は、名古屋に住んでいるので、東海大震災がいつ起こるのかと言う話題が最近多いです。そんな時、震災に遭われた方のお話をテレビで拝見し、準備した方がいい物などとても参考になりました。人間は、自然に勝てないので出来る限りの準備をして、いつ来るのかわからない震災に立ち向かわなくてはいけませんね。前向きに・・・。


千葉県富津市

防災用品は揃えなきゃって思うのに、実際は揃っていないのが現状です。昨年の1月、この地方では珍しい大雪で電線が切れ、夕方から停電になりました。家では殆どを電気に頼っているので、大変不自由しました。電気はつかない、暖房は使えない、お風呂も沸かせない、唯一使えたのがガスコンロ。サラダ油の残りでランプを作って灯りにしました。たかが真冬の停電…、なのに日頃電気に頼っているので殆ど機能しませんでした。幸い4時間ほどで回復しましたが、地震のように復旧までに長くかかる場合、やはり何も準備していないと大変だということは考えさせられました。


京都府長岡京市

震災の時、地震のあと、少しの間停電になったのが、すごくこわかったのを覚えてます。
私んちは、被害らしい被害はなかったけど、記憶が鮮明です。
だから、それ以来、枕元に懐中電灯を置いて寝てます。


大阪府寝屋川市

阪神淡路大震災の時私は築15年のボロ文化住宅に彼氏(今の旦那さん)と同棲していました。すごい揺れで目が覚めなにがおこったのかわからないままでとっさに彼氏が上に覆い被さってくれたのでそのまましがみついてました。揺れがおさまって電気をつけてみると飾ってあったものがすべて下におちてました。その日たまたま熱をだして仕事を休んでいた彼氏でしたがそのまま仕事に行けばちょうどその時間には阪神高速神戸線を走っていた時間でした。本当にこわかった。今でも小さな地震でも体が硬直します。トラウマになってると思います。こんな人はたくさんいるでしょうね。


東京都品川区

阪神、淡路大震災のとき、和歌山に住んでました。その時私は、高校生で、クラブ活動の朝練の為、駅に原付バイクで向かってるときでした。その為、その地震を知らないのです。駅についって、電車が来ないものだから、母に電話をかけて、今、凄い地震があった事を知らされました。その後、何時間かして、TVを見て驚いたのを覚えっています。戦争は知らないけれど、その光景は、戦争の時の焼け野原そのものだと思いました。


京都府京都市

センター試験を受け、休み明け学校が始まる日。揺れる直前に目覚めぼぉっとしていると一気に揺れが来た。活断層が割と近くを通っており学校へ行く道、家の壁にひびが入っていた。周りでは幸い大きな被害を受けた人がいなかった。


■店長コラム 活断層について... [2002.2.4]

明治時代以降に、日本で発生した内陸部のマグニチュード6以上の直下型地震は、76地震(余震を含む)に及びます。これを平均すると1.7年に1回の割合で直下型地震が発生している計算になります。
私たちの生活の多くが活断層というもろい基盤の上にあることを知らされたのが阪神淡路の震災でした。
この活断層が、日本列島が周囲から絶えず加わる地殻の圧力に耐え、数百年から数千年の時をかけて歪を徐々にため込む。ある時点が来ると歪に耐え切れなくなってずれ動く。これが地震です。また、日本列島がのる陸のプレートと海の中にあるプレートと同士がぶつかるプレート間地震は巨大地震の原因とされています。重い海のプレートが陸のプレートの下にもぐり込み、陸のプレートはそれに引きずられるが耐え切れなくなって反動で跳ね返ることによる地震です。
地震は大きく分けると内陸型の活断層の地震とプレートの地震この2つのタイプに分けられます。
活断層はM7規模とされますが、プレートの地震はM8クラスの巨大地震となります。関東大震災はプレートの地震でした。
地震は同じ地域で同じくらいの規模で同じくらいの周期で繰り返し起こる性質があるとされています。地震予知の基本はここにありますが、1980年代から話題とされている東海地震は、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートのちょうど境界に位置することから、このプレートが1854年以降大きな地震が起きていないことでM8クラスの大きなエネルギーがため込まれているという見方がされています。
活断層は、地域により差がありますが、ほぼ日本全国に分布します。この活断層の中には阪神大震災と同じような直下型の地震を引き起こす可能性の高い地域があることなどが指摘されております。活断層の集中している中部地方~近畿地方では、活動度の高い断層が多く見られ注意が叫ばれています。
活断層の調査結果は、毎年報告書を発行して速やかに公表され、調査結果をまとめて「詳細活断層図」や「広域の活構造図」として刊行されています。
各自治体のホームページ上でも活断層地図を公表しているところもあります。

○役に立つ 活断層地図 リンク集○
地質調査総合センター 地質図カタログ(販売/サンプル表示あり)
活断層研究センター
活断層ストリップマップ
日本の活断層マップ(山梨大学/日本国内の活断層地図及び解説)[お薦め!]
財団法人日本地図センター
日本国勢地図CD-ROM[1990年版 7,500円]

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その他、地震(震災)に関する参考資料集

日本における「主な直下型地震の発生確率一覧」
日本における「主な海溝型地震の発生確率一覧」

東京都(全5,099地域)地震に強い地域・弱い地域ランキング

緊急地震速報について

2004年 新潟県中越地震 の震度分布
新潟県 中越地震


■1995年 阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の震度分布
阪神淡路震災についてアンケート調査コメント集
阪神淡路震災(兵庫県南地震)


1923年 関東大震災の震度分布(大正関東地震)
関東大震災


■2001年 芸予地震の震度分布
2001年 芸予地震
■2003年 三陸南地震の震度分布
2003年 三陸南地震[M7.0]
三陸南地震の図は出典:内閣府[広報ぼうさい(No16号)]
●参考資料●相模トラフ沿いの地震活動[2004.8.23]

主な関東(首都圏)の地震年表

発生日名称規模死者負傷者
2005年7月23日千葉県北西部地震M6.0038
1992年2月2日東京湾南部地震M5.9034
1987年12月17日千葉県東方沖地震M6.72161
1956年 9月30日千葉県中部地震M6.304
1923年 9月 1日関東大震災  ●関東大震災 解説M7.9142,807103,733
1922年 4月26日浦賀水道地震M6.8223
1921年12月 8日茨城県南部地震M7.000
1915年11月16日房総半島群発地震M6.005
1895年 1月18日茨城県南部地震M7.2968
1894年10月 7日東京湾地震M6.700
1894年 6月20日明治 東京地震M7.031197
1855年11月11日安政 江戸地震M6.910,000多数
1853年 3月11日嘉永 小田原地震M6.7100多数
1782年 8月23日天明 小田原地震M7.0有り有り
1703年12月31日元禄地震M8.210,000多数
1697年11月25日元禄 鎌倉地震M6.5不明不明
1633年 3月 1日寛永 小田原地震M7.0150多数


※震度分布の画像について:
三陸南地震についての画像は、内閣府発行の広報誌[広報ぼうさい(No16号)]より画像引用しています。それ以外は、Seiさんのお店で作成したオリジナルです。
その為、三陸南地震の画像についてはHP等で使用・引用しないようにして下さい。それ以外の震度分布図の画像は、もしご入用でしたら、個人・法人問わずHP等で自由に利用下さって構いません。

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